日本庭園は、飛鳥時代(593 ~ 710 年)・奈良時代(710 ~ 794 年)から今に至るまで伝えられる日本の伝統文化です。時代の流れによって、日本庭園の様式も変化しています。
そして、日本庭園の意味合いや日本庭園に求めるものも時代によって変化してきました。つまり、日本庭園は、その時代に生きた日本人の想いに影響を受けて変化してきた歴史があるのです。
また、今でも日本庭園は非常に高価なものです。簡単に手に入るものではありません。しかし、誰でも日本庭園を入手することはできます。ところが、それは明治時代以降の事でした。平安時代のころは日本庭園は貴族などの上流階級の特権であり、戦国時代以降は大名階級の特権でした。一般の民は庭園をつくるなどの贅沢は許されなかった風潮がありました。
このように日本庭園は日本の歴史文化を象徴するように、時代の変遷を経て今に伝わる貴重な財産ですね。
それでは、日本庭園を時代別に見ていきましょう。
日本庭園の源流をつくった飛鳥・奈良時代
古代の人々は自然とともに生活を営み、身の回りの自然をときとして神として信仰し、崇拝の対象としていました。
巨石を神が降臨する場とした「磐座(いわくら)」や海と見立てて池に海神を祀った神池、神島など、その後の日本庭園の源流とみられるもはこの時代でした。
つまり、日本庭園の起源は自然への信仰であったのです。
その後、仏教伝来とともに大陸から庭園文化が移入されます。当時の百済からの渡来人である路子工(みちのこのたくみ)は宮廷の南庭に池に橋を架け、仏教世界の中心にそびえる須弥山(しゅみせん)を象徴する立石を据えたりしました。
また、平城宮東院庭園には、複雑な形の池泉に中の島が配されていて、この庭は大陸からの客をもてなす場であり、当時の先進文化を代表するものでありました。この時代にS字型の流水路をつくった曲水の庭が大陸から伝わりました。このS字型に曲がった流水路を舞台に、上流から配を流し、自分の前を通るまでに歌を詠むという「曲水の宴」が盛んに催されました。
飛鳥・奈良時代は、古代日本人の自然を崇める精神に、仏教の伝来を受け入れて、日本独特の日本庭園発展の礎を築いた時代でありました。
貴族の拠り所となった平安時代
都は平城京から平安京に移り、庭園は奈良時代より引き続き池泉舟遊式と曲水や鑓水の様式となりました。
平安時代の日本庭園は、寝殿造りの建築と一体となった庭園でした。神殿造りは、南の池を中心とした庭園といったとなっており、池と神殿は渡廊で結ばれ、その先端に池に突き出した釣殿(納涼を目的とした空間)が設けられました。池には三神仙島と呼ばれる三つの島を設け、中島は橋で結ばれて鑓水と呼ばれる水路を通して東北から水が引かれました。
貴族たちは池泉に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)(船頭に龍と鷁という水鳥を飾った船)を浮かべ、船遊びを楽しみました。
6世紀に大陸から仏教が伝わり、貴族を中心に広く信仰を集めた平安時代。
仏典には、仏法を開いた釈迦がなくなった1000年後に、この世が乱れて、極楽浄土へはいけないと説かれています。これを末法思想と言います。
平安後期の1052年がちょうどこの年になることから末法元年とされています。
偶然にもこの頃、僧侶が僧兵となり互いに殺し合うという戦乱が起きます。貴族たちは、まさに末法の世が来たと恐れました。
このような末法の時代に、往生極楽する唯一の方法が「観想」と呼ばれる極楽浄土を鮮明に脳裏にイメージすることでした。
しかし、簡単に極楽浄土をイメージするのは難しかったため、目の前に作ろうではないかという考えに至ったのです。
こうしてできたのが、平等院庭園を代表する浄土式庭園です。
武家中心の鎌倉時代
平安時代は貴族階級が組を支配したのに対して、鎌倉時代は自ら耕した農地の所有権を武士が主張し、国を動かすようになりました。
そして、建物は大きなワンルームであった神殿造りから、内部をいくつかの独立した部屋に分け、各部屋に畳を敷き、床の間などの付属施設を設えた書院造りへと変わっていきました。
庭園も徐々に変化し、平安時代の舟遊式庭園から回遊式庭園へと変わっていきました。社会の中心となった武士階級は、中国から新たにもたらされた禅の教えに帰依するようになり、禅的修行の一つとして、庭園内を回遊しながら思索することを好みました。また、書院の発展により、部屋から庭園を見る座視鑑賞式の庭を生み出していきました。
この時代の庭園をリードしたのは、禅僧でした。中でも臨済宗の禅僧・夢窓国師(むそうこくし)は、現代の苔寺で親しまれている西芳寺の上段の斜面を利用して水を使わない滝組を作り、その後の枯山水の源流を築いたとされ、前期枯山水と呼ばれています。
鎌倉時代に生まれた新しい滝石組に、龍門漠(りゅうもんばく)があります。中国の黄河の上流には激流の渓谷に三段の滝があり、その滝を上りきった鯉は龍に化すという伝説があります。ここからできた故事が登竜門です。そして、この伝説にあやかって男の子の出世を願う行事が、鯉のぼりです。 龍門漠は、滝石組の中に鯉に見立てた鯉魚石(りぎょせき)を中心にした滝石組です。この龍門漠は、室町時代にも受け継がれていきました。 鎌倉時代は、貴族中心の平安時代から武士中心の世に代わり、同時に建築様式や生活様式が変わると同時に、それい合わせて庭園様式が変わっていったのです。
日本庭園の花が咲いた室町時代
室町時代を代表する日本庭園として、通称金閣寺と呼ばれる鹿苑寺と通称銀閣寺と呼ばれる慈照寺があげられます。
ともに、中島を配した池を中心とした浄土式の意匠の中に、中国の道教からの影響を受けた神仙蓬莱思想があわさって形づくられています。
そして、この時代に日本庭園史上の転機とされる、水を一滴も用いることなく山水の景を表現する枯山水が出現します。後期枯山水と呼ばれます。
枯山水は、禅の世界のフィルターを通して見た自然界を、ごく限られた石や砂で空間を象徴化した、いわば、山水画を庭に表現したものでした。
枯山水は深山幽谷を表現したものが多いですが、限られた空間で、広大な景観を造る事はできません。そこで縮景が進み、高山を一つの石で表すなどの抽象化が進みました。
また、龍安寺庭園のように、長方形の白砂に15の石が置かれているだけの庭園もあり、砂利を海とも雲海ともとれます。この庭園からは一つの意味に留まらず、見る者の捉え方で意味が変わるとされ、人の心を映す庭園としての魅力を備えています。
室町時代は、過去の時代から受け継いだ庭園思想に花が咲き、様々な魅力を放つ庭園に発展していった時代だと言えます。
天下を象徴した安土桃山時代
安土桃山時代は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三雄が天下統一を争った戦乱の世です。
安土桃山時代の美術や建築は、権力を鼓舞する傾向が強くなっていきます。城郭においては大規模な天守閣が出現し、それに伴い障壁画金碧濃彩が主流となります。
秀吉は、自らの権力の象徴として京都の聚楽第や伏見城、醍醐寺三宝院などのを造営しました。このように、戦国末期の安土桃山時代の庭園は、大名や武将たちの権力の象徴として豪勢に造られました。
奈良時代からの継承された神仙思想を表現し、神仙島が築かれました。神仙島は、不老不死の仙人が棲み、不死の仙薬があると信じられていました。よって、人が近寄ることのできない未知の世界という意味から、神仙島に橋がかけられることはありませんでした。しかし、安土桃山時代には、戦国の乱世を生きぬ来た武将たちにとって、神仙島を表す亀島や鶴島は遠くから眺めるものではなく、自ら足を踏み入れた世界であるとして、橋が架けられるようになりました。
安土桃山時代は、豪華な鶴亀石組を創造した庭園の一方で、侘び、寂び、幽玄の庭である茶庭も生み出しました。
茶の湯の成立は、室町時代末期と考えられています。村田珠光が四帖半の茶室をはじめて建てたとされ、安土桃山時代に入って、武野紹鴎や、弟子で侘茶を大成した千利休の登場によって、独立した草庵の茶室と茶庭が造られるようになりました。
茶庭は露地とも呼ばれ、人が茶室まで歩く道すがらという意味が込められています。茶庭の出現により、飛石や蹲踞、灯ろうが生まれ、現在でも露地には欠かせない要素となっています。
また、京の町屋はいわゆる鰻の寝床で、間口が狭く奥行きが長いものでした。その中間に明り取りの空間が設けられて、そこには露地の小型版のような空間で、灯ろうや手水鉢で飾られました。このようにして生まれてのが小さな庭空間としての坪庭です。
安土桃山時代は、天下を極めた武将たちにより、日本庭園が豪華に輝いたと同時に、全く逆の質素な趣きに光をあてた精神性を重んじた日本庭園の両方を生み出した時代だったのです。
一大ブームを巻き起こした江戸時代
江戸時代になると、戦乱のない平和な世を迎えました。庭園は幕府のお膝元の江戸を始め、全国の城下町を中心に一大造園ブームが湧きおこりました。
江戸には各藩の上・中・下の屋敷が置かれ、それぞれに庭が造られました。全国の藩の数は約3000といわれており、江戸市中には1000近くの藩邸があったことになります。まさに世界一の庭園都市であったといえます。
江戸時代に造られた大名家ゆかりの庭園を、大名庭園と呼びます。大名庭園には、広大な池泉を備えている特徴があります。
また、地方の藩には、参勤交代の時に見た景色を模写した庭園も見られました。特に人気が高いのは霊峰富士でした。その典型を熊本藩細川家の別邸水前寺成趣園に見ることができます。
江戸時代の日本庭園は、平和な世を背景に庭園文化が一段と発展した時代でした。日本中が庭園の作庭を始めた日本史上でも最も日本庭園が多く存在した時代でした。特に江戸は約7割を武家屋敷が占めていたとされます。武家屋敷には必ず広大な大名庭園が造られていたとすると、本当に緑豊かな美しい風景であったことが想像できます。
変遷を迎え新たな名園を生んだ明治・大正・昭和時代
明治維新により幕を開けた明治時代は、社会の仕組みが一変し、西洋文化も堰を切ったように流入してきました。そのため、それまで伝統を踏襲してきた日本庭園の世界にも新たな潮流が生まれました。
逆に、廃仏毀釈と呼ばれる寺院の排斥は庭園にも及び、次々と名庭が破壊されていきました。
明治時代以降、独自の作庭技術で名庭を残した巨匠の存在が現代に新しい日本庭園の価値観を残しました。
政治家で軍人である山形有朋の庭園観を咀嚼し、新たな造景に力を尽くした植治こと七代目小川治兵衛。
全国各地300を超える古庭園を実測調査し、その経験を踏まえて京都の東福寺をはじめ数多くの庭園の作庭を手掛けた重森美鈴。その他多くの優れた作庭家が世に出た時代でした。
アメリカの造園雑誌で日本一の評価を得ている足立美術館の庭園も現代の時代に作り出された名園です。
明治時代以降の日本庭園は、これまでの時代に培われてきた日本庭園の世界観を受け継ぎながらも、これまでの枠におさまることなく、新しい価値観を受け入れて、新たな日本庭園を生み出しました。日本庭園がグローバルに認知され、世界中にファンを作ったものこの時代です。日本文化の象徴ともいえる日本庭園文化が、新たなステージにステップアップした時代と言えるのではないでしょうか。
参考文献
田中昭三.よくわかる日本庭園の見方.JTBパブリッシング.2007
宮元健次.日本庭園鑑賞のポイント55.メイツ出版株式会社.2010
宇田川辰彦,堀内正樹.図解日本庭園の見方・楽しみ方.一般社団法人家の光協会.2015